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今井町の観光の楽しみのポイント 

今井町
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今井町は称念寺の寺内町として生まれ、発展した、環濠城郭都市です。

平成5年 1993年には 「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。重要伝統的建造物群保存地区内には、約500軒の伝統的建造物があり、重伝建の中でも、圧倒的なボリュームです。重伝建地区内の数としては日本一だそうです。

今井町

今井町は、東西約600m、南北約310m、面積にして17.4ha(甲子園球場5個分、東京ドーム4個分)の広さです。その範囲には、全建物戸数約760戸のうち、国の重要文化財が9件、県指定文化財が3件、市指定文化財が5件あります。

また、重要伝統的建造物群保存地区は、2021年8月現在、山形・東京・神奈川・熊本を除いた43道府県、104市町村の126地区が選定されており、奈良県には今井町の他、五条新町・宇陀市松山地区の3地区が指定されています。
機会があれば是非周っていきたいですね^^

今回は今井町のおすすめポイント、楽しみ方をお伝えします。

目次

今井町の観光のポイント

今井町は江戸時代の街並みといわれますが、戦国時代に、今井兵部(いまいひょうぶ)によって一向宗の布教を進める道場として始まった称念寺(しょうねんじ)を中心として形成された城塞都市(じょうかくとし)で、寺院が武装化していた戦国時代の姿をも色濃く残し、極めて貴重で重要な町として注目を集めています。
織田信長の一向宗への弾圧の時には、大阪の石山本願寺等と一緒に戦い、堺の豪商で茶人三宗匠の一人津田宗及や明智光秀のとりなしで救われ、自治都市、商業の町へと発展し、最盛期は17世紀後半(将軍・綱吉の頃)。世帯数は1,082軒、人口約4,000人。肥料、木綿、味噌、米、酒などの取引に加え、大名相手の金融業者も活躍。「大和の金は今井に七分」とも言われるほど潤い幕府の天領でもありました。町独自の紙幣「今井札」も流通していたんだそうです。
「大和の金は今井に七分」「今井の新堂屋 金の虫干し玄関まで」と言われるほどに繁栄しました。

今井町の楽しみ方

今井町は街並みはもちろん、各住宅のパーツ、屋根からマンホールまでもチェックしながら楽しめます。

□戦国時代~江戸時代を感じさせる街並みを楽しむ

堀・土居・矢倉のほか、街路が遠くを見渡せないように、T字路ないしは食い違いになっています。特に西口は今西邸の張り出しで鉤(こう)の手になって、この大手に入る堀と橋の箇所は春日神社に続く常福廃寺の張り出し部分から横矢をかける位置になっています。西には環濠を一部復元しています。

□町を守ってきた、防火対策や町掟に思いをはせながら街を歩く

□鬼瓦・鍾馗さん・厨子2階や虫小窓・煙だし・建具、駒つなぎ等各家のパーツを細かくチェック

□今西家や高木家、音村家・中橋家などそのお家の奥様が説明してくれる説明を聞く

※前日までの予約が必要なところもあります。

□豊田家記念館をはじめ、街のお宝を拝見する

□フランス料理・和食・カフェなど、いろんなお店で食事やカフェで食べ歩きを楽しむ。

いかがですか?あなた自身の楽しみ方を見つけてください

今井町の基本ポイント

今井町の歴史

今井町は南北朝時代には、興福寺の荘園として存在していたことが確認されています。

今の今井町の起こりは、室町時代の天文(てんぶん)年間(1532~1555年)、本願寺の農民などを門徒化し、後に、諸国の浪人や商人が集められ、寺内町を形成しました。

天正元年(1573)に近江から来た河瀬兵部が今井に入って称念寺を建て、同三年、本願寺が織田信長に降り、今井も降伏を許された。その赦免状に『土居構』を崩し、陣取りを停止(ちょうじ)することを禁ぜられている。

江戸時代の最盛期には、戸数1,100軒、人口4,000人からなる大和最大の財力を有する町で、「大和の金は今井に七分」とも「海の堺、陸の今井」とも歌われていました。

江戸時代の17世紀後半、五代将軍綱吉の頃に幕藩体制が整ってからも、商業が盛んだった今井町は衰えることはありませんでした。
さらには、藩札と同じ価値のある独自の紙幣「今井札」も流通しました。

今井町の規模は

今井町

東西約600m、南北約310m、面積にして17.4ha
甲子園球場5個分、東京ドーム4個分の広さ
全建物戸数約760戸のうち、約500件の伝統的建造物。江戸時代に建てられたもの。
今も多くの家屋で人々が生活しているのも大きな特徴です。

全盛期の今井千軒  4000人 通常の村は30軒程度
現在、1000人強 橿原市12万弱人

今井町の立地のポイント

今井町

最初の立地が選ばれた理由も大阪や京都と吉野の中間点、古くからの大道(横大路・下ツ道)が近くといったように、交通の便のいい立地でした。

今井町の建物のポイント

今井町の商家の構えは、切り妻造り、平入り、正面に格子、板戸があり、本瓦葺の低い中二階建て、中二階の壁面と本屋の軒裏を白漆喰で塗り込めてあり、虫籠窓をつけ、本瓦葺の大屋根に煙り出しの小屋根を付け、駒繋ぎの環を残している。これが町並みを形成している外観である。
本瓦 通常はお寺などに使う。重いので柱や梁をしっかりした造りにしなければいけない。⇒豊かさの表現。

鬼瓦
鍾馗さん
格子
虫籠窓
煙だし
袖壁
環濠・土豪・竹藪・九つの門
見通しのきかない筋違いの道路
駒つなぎ

今井町の代表的な家屋は今西家(国の重要文化財)。「八ッ棟造り」といわれ、重ね妻の棟数の多い建物で、民家というよりも城郭を思わせるもの。慶安3年(1650)に建築された建物で、今井町では最も古い民家。代々今井町の惣年寄筆頭を務めた家柄で、広い土間の上部には「いぶし牢」と呼ばれる拷問部屋が残っていて、自治の凄さをおもい知ることができます。※前日までの予約が必要。説明の上手な奥様が説明してくれます

常時一般公開されているのは、ドラマやCMのロケ地としてよく使われている、旧米谷家(国の重要文化財)。金物・肥料商であった商家を解体修理して、昭和50年から公開。昭和31年国有で橿原市の管理。
他の、国の重要文化財に指定されている民家は、高木家・河合家・音村家・上田家・中橋家・豊田家の8軒で、今井町の重要文化財9軒のうち、称念寺以外の8軒は民家です。

今井町の水

今井町は井戸から湧く水が良質なことから、かつては町内に数軒の酒蔵があったそうですが、現在残るのは河合酒造(重要文化財)のみです。

ただ、場所により、今井町の多くの井戸の水は金気feが多いので、飲料には不向きなので、飛鳥川の畔、蘇武橋を渡った所にある蘇武之井(そぶのい)を使用していたようです。蘇武之井

蘇武之井には、働く人の辛さを表現した「今井ソンボの朝水汲みは桶がもるやら涙やら」といったエピソードもあります。また、聖徳太子が水を飲まれたとも、愛馬の黒駒に水を与えられた井戸とも伝えられています。

今井町はなぜ残ったの

空襲など戦争の被害にあわなかったことは大きなポイントだと思いますが、一番は、町を自分たちで守るという強い住民の意識の高さのように思います。

寺内町の初期のころは、既存勢力との戦いで、焼かれたこともあるようですが、自治都市として、町掟で火災についての気遣いは徹底されていたようです。

他の災害としては、西側が低いので、浸水被害はあったようです。
また、何度か地震の被害もあり、1927年(昭和2年)3月7日の北丹後地震により、今西家の本建物西に接続していた牢屋と、南の三階倉が倒壊したなどの被害もあったようです。が、街の原型が亡くなるような、大きな天災にもあっていないようです。

また、明治時代の鉄道開通の際も、今井町近くに駅の計画があったのですが、住民の反対により少し離れた八木町に作られることになったそうです。

今井町防火への配慮

今井町では防火のための工夫もいろいろされています。
漆喰
袖壁

本瓦屋根
という家の作りに加えて、

防水タンクを4つの生活広場(旧北町生活広場・中町筋生活広場・旧西町生活広場・南町生活広場)に設置し、各広場の下に40トン〜80トンの防火貯水槽や初期消火設備が整備されています。

街頭消火器(木製収容箱付150基)・可搬式ポンプ(2箇所の防災小屋に設置)

今井町防災会・防火訓練など

町掟

江戸時代には、独自のルールである「町掟」によって定められています。

内容は17条からなり、上納・売買・消防・自身番の規定・博打の禁止・道路の保全・濠溝の保護・焙煤清掃・節約勤倹など町民相互の社会道徳や保全にまで広く及び、特に防火に関してきびしく管理を行っていました。

特に防火に関しては厳しかったようです。現在も江戸時代の建物が多く残ることは、長いあいだこの町掟が住民一人一人に周知徹底され続けていた事を物語っています。

今井町の観光まとめ

江戸時代の家々が立ち並ぶ様子や、各建物の格子・虫籠窓(むしこまど)・つし2階
屈折している通りや地区を取り囲むように設けられていた環濠跡

住んでおられる方々の思い等、まとめてみましたが、百聞は一見に如かず是非味わってみてください

今井町の観光ポイント少しでも伝われば^^
最後に、今回紹介した情報がお役に立てましたら、


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