吉野山

鎌倉殿の13人は、北条義時を主人公に平安時代の終わりから武士の社会の誕生、源平合戦と鎌倉幕府が誕生する過程で繰り広げられる権力の座を巡る駆け引きと、源頼朝の死後に発足した集団指導体制である「十三人の合議制」を構成した御家人たちが描かれるようです。

鎌倉幕府の誕生といえば、義経の活躍が描かれ、義経は戦巧者の悲劇のヒーローであり、頼朝は陰険な策謀家という位置づけになることが多いです。

吉野山
歌舞伎の世界では、判官贔屓というくらいで、義経は善玉、それを殺した頼朝は悪玉、と相場が決まってます。『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』や『勧進帳(かんじんちょう)』などがその代表です。

義経といえば、静御前との悲恋が欠かせません。が、今回は切り口が違うので義経との吉野山のシーンなどはないかもしれませんね!?
静御前が鎌倉に連行され鶴岡八幡宮社前で舞うシーンはさすがにほしいので、菅田将暉さんの義経に対して誰が静御前にキャスティングされるか楽しみです。

義経と静御前と吉野山

鎌倉殿の13人は平安時代の終わりから鎌倉幕府の成立が舞台の大河ドラマ。
奈良 吉野山ゆかりの義経は平家討伐には大活躍しましたが、頼朝に無断で後白河法皇より任官されるなどの問題があって頼朝と対立し、逃亡生活を送ることに。最終的に「頼朝」に自害を迫られる、悲惨な結末を迎えてしまいます。

吉野山が舞台になるのは、九州へ行こうとして、行けずに向かったのが吉野山のようです。

摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻されてしまった。これで義経の九州落ちは不可能となり、吉野山へ逃亡します。1185年(文治元年)の暮れ、吉野山で愛する源義経と別れた静御前は、従者に金銀を奪われ山中を彷徨っているところを金峯山寺の僧兵に捕えられて、勝手神社の社殿の前で舞い、荒法師たちを感嘆させたのだという。

義経・静御前と関連のある吉野山のスポット

吉野山で5日間を過ごした後、別れた義経と静御前ですが、吉野山のゆかりのスポットを巡ってみるのはいかがでしょう。

佐藤忠信花矢倉 上千本
花矢倉は、義経の郎党佐藤忠信が義経一行を落ち延びさせるため囮となって戦った場所。
義経の郎党佐藤忠信は、義経を落ち延びさせるため、花矢倉から覚範をはじめとする僧兵たちに矢を浴びせて戦ったのだと伝えられています。
吉野山
義経隠れ塔 奥千本
義経隠れ塔は、蔵王堂の僧兵の山狩りから逃れるため、義経が身を隠したと伝えられている堂。
金峯神社(きんぷじんじゃ)は、吉野山の地主神・金山毘古命(かなやまひこのみこと)を祀る神社。金峯山寺の僧兵の山狩りから逃れるため、源義経が身を隠したと伝えられている堂。追手に囲まれた義経が屋根を蹴破って逃げたと伝えられていることから「蹴抜の塔」(けのけのとう)とも呼ばれるのだとか。現在の建物は大正期に再建されたもの。
吉野山
吉野山

勝手神社 中千本
孝安天皇6年(紀元前386年)の創建ともいわれるが、詳細は不明。社殿背後は袖摺山と呼ばれ、672年(天武天皇元年)、大友皇子に対抗して吉野で挙兵した大海人皇子が社殿で琴を奏でたところ、裏山から天女が舞い降り、吉兆を示したのだと伝えられている。2001年(平成13年)に不審火で焼失

吉水院(現在の吉水神社)中千本
金峯山寺の格式高い僧坊でしたが、明治のはじめ、後醍醐天皇、楠木正成、宗伸法印をまつる神社に改められました。
吉野山
吉野山
吉野へ潜行された後醍醐天皇を、吉野大衆の中でも特に力をもっていた住職、宗信法印がお迎えし、吉水院は一時行宮となります。源義経が静御前や供のものと逃げのびてきたのも、太閤秀吉の花見の本陣となったのもここです。
最後に逗留した吉水院(現在の吉水神社)に日本最古の着物として、静御前が当時持ち歩いていた着物が残されていて、展示されているそうです。

静御前の吉野のあと

吾妻鏡に載っている公式な静の消息では、

京の高名な白拍子が鎌倉に連行されてきたとあって、頼朝は静に鶴岡八幡宮社前で舞うことを命じる。(4月)
このとき、静は義経を慕い懐かしむ演目をおこなったとか。

「しずやしず しずのおだまき くりかえし むかしをいまになすよしもがな」

頼朝は激怒しましたが、同席していた北条政子は痛く感動し、絶賛してとりなしたため、この時は無事で済む。
この後、静は妊娠が発覚し7月末に鎌倉で義経の子を産む。
しかし男の子であったために生後すぐに子供は取り上げられて殺される。
9月になって体調の整った静と磯禅師は帰京。このとき北条政子などから多くの重宝を与えられたとされます。

その後、多くの伝説では帰京まもなく義経を追って京を出奔したものの、奥州にたどりつけずに途中(場所はさまざま)で亡くなった、もしくは途中で自殺したとされてます。

静御前と大和高田市

静御前と奈良との関係は吉野山だけではありません。大和高田市の 高田千本桜で親しまれている大中公園にも静御前の碑があります。

静の伝説の一つに、静御前は母・礒野禅尼の里 礒野(大和高田市)に戻り、終焉を迎えたとされています。現在も静の墓として伝承されている塚が残っています。

磯禅師は白拍子の家元的存在だったそうです。

静御前

静御前

静御前

静御前の歴代キャスト

今回は、発表されていませんし、その場面がないかもしれませんが、歴代の大河ドラマで、 静御前を演じた女優(当時の年齢)さんをチェックすると、
1966年(第4作) 源義経(尾上菊之助) 富司純子(当時21歳)
1979年(第17作) 草燃える(国広富之) 友里千賀子(当時22歳)
2005年(第44作) 義経(滝沢秀明) 石原さとみ(当時19歳)

鎌倉殿の13人で義経と静御前の吉野山のまとめ

2022大河ドラマ、鎌倉殿の13人、吉野ゆかりの義経や静御前の場面はどう描かれるのか今から楽しみです。

吉野山は桜以外にも楽しめるスポットがありますので、また、訪ねてみてください。

最後に、今回紹介した情報がお役に立てましたら、


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